
1959年兵庫県生まれ。筑波大学卒業。東京リコー、富士通を経て'92年、コンパック入社。'02年、日本ヒューレット・パッカードと合併、パーソナルシステム事業統括マーケティング本部長。'07年より現職。
パソコン業界で今なお語り継がれている“事件”がある。1992年、当時50万円が当然のパソコンが、12万8000円という驚くべき価格で発売されたのだ。これが、コンパック・ショック。そのプロジェクトをリードしたのが岡である。
「日本のPCの価格を世界標準へ、それがキーワードでした。みんなが求める製品を適正な価格で。それは当然のことで、市場に受け入れられた。ただ、業界をかなり挑発したので、敵もかなりできたでしょうね」
当時社員はわずか30名ほど。PCのマーケティング担当はまだ32歳だった岡ひとりだった。その名を日本に知らしめたコンパックは急成長を遂げ、3度の合併を経て、今はHPになった。
型破りな実績を持つ岡だが、そもそもコンピューター業界に入ったきっかけも型破りだった。
「就職先を決めないまま大学を卒業してしまって。だから、今で言うフリーター。ホテルのバーテンダーをしている時、そこによく見えていたのが、IT業界の人たちだったんです」
カウンター越しにスカウトされたのだ。飛び込んだのは、東京リコー。コンピューター黎明期、オフィスコンピューターの企業向け営業を担当した。
「本当はSE入社のはずが、営業配属。まあ、会社がそう言うならいいか、と(笑)。とにかく知らない世界。まずは言われた通りにやろうと思って」
研修でのコピー機販売では毎日100軒の飛び込み訪問を黙々とこなした。だが、売れない。実は人前で話すのは苦手なのだ。それでも同じ顧客への訪問を、何度も繰り返した。
「研修3ヵ月目、営業成績はゼロでした。ところが研修が終わりに近づいたことを訪問先に伝えたら、次々に契約を交わしてくれたんです。よく何度も来てくれた、餞別だ、買ってやると」
その数は20台を超えた。岡は思った。大事なのは、役に立ちたいという気持ちだ。同じものを買うならお前から買いたい、と言われる営業マンになりたいと。その後、小型コンピューターの営業で顧客を開拓していった。だが、顧客の事業が成長すると、より大型のシステムが必要になる。その顧客の要望に応え、ずっと付き合っていきたい。岡は富士通への転身を決める。
「ところが、採用職種の確認が甘かった。PCの販売推進を担当することになりました」
'80年代のPC市場の勃興期、岡は梱包材の材質選びから、東京ドームでのキャンペーンまで手がけた。仕事は面白かった。だが、どこかに会社に従っているだけの自分に不満を感じた。
「起きている時間はほとんど仕事。それなのに、ちょっと違うな、と思いながら過ごすのはまずいな、と感じ始めて」
この時に出会ったのが、コンパックだった。そして、コンパック・ショックを導く。その後何度も訪れる合併。実績を作った岡である。その節目にヘッドハンターから誘いがないはずはない。だが、岡は動かなかった。
「合併は残る人も去る人も両方大変。合併をリードしている者が、あとは任せたと先に去るわけにはいきません」
今、副社長の要職にある彼は、こう部下に檄を飛ばす。「世間から欲しがられる人間になれ、俺と議論して言い負かせ」と。小さな組織が業界で勝ち抜くには社員ひとりひとりがスーパーマンでなければならない。
HPのパソコンは世界でシェア1位を誇る。世界と同じように、日本でもPC業界で1位になることが、岡の目標だ。
「論理的に正しいことをやり続ければ必ず答えは返ってくる。それが市場。やるべきことを、着実にやっていくだけです」
一見、強面の岡だがその奥には人情味溢れる人間性が潜んでいる。
ずっと英語は嫌いで苦手だった。だが、外資に入れば否応なしに必要になる。現実には辞書を引く時間的余裕はないが、気持ちのうえで必要という。
中学、高校、大学と、卓球に熱中。一気に逆転はない。コツコツ得点を積み重ねていく。「やればやっただけ努力は報われる、を教えてくれたスポーツでした」。
「どんな製品を、どのくらいの値段で、いつ、どんな広告で、どこに売り出すか、すべて自由に決めさせてくれた」という岡は、この製品で“コンパック・ショック”をリードした。
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