「唯一無二のシャンパーニュ」とも称されるクリュッグは、日本と強い絆で結ばれていた。その絆を再確認すべく、8人のクリュッグラバーがそのシャンパーニュの故郷ランスの地を訪れた――。
「祖父からこの古びた手帳を手渡されたのは、1989年の9月1日のことでした」
博物館の貴重なコレクションのように、その革張りの手帳はガラスケースに納められていた。
「『シャンパーニュ造りの秘訣について先祖が書き記したものだから、時間がある時に読むといい』。祖父はそう言っていましたが、私はまだ若かった」
そう言うと、クリュッグ家の6代目当主オリヴィエ・クリュッグは悪戯っぽい笑みを浮かべて、クリュッグ社のCEOマギー・エンリケスを指さした。
「読みもせずにその手帳をほったらかしにし、もらったことも忘れていたんです。それが1年半前にひょっこり出てきた。それをマギーに見せたら、真面目だからきちんと読んだんでしょうね(笑)。翌朝早くに電話がかかってきた。『オリヴィエ、大スクープよ。手帳を書いたのはクリュッグの創設者、ヨハン・ヨーゼフ・クリュッグその人。あなたの5代前のおじい様よ』って」
クリュッグの創設者といえばシャンパーニュ造りの歴史における伝説的なカリスマのひとりだ。その伝説の人物の自筆の手帳が見つかったのだ。しかもその手帳には最上級のシャンパーニュを造るための秘密が書かれていたという。いったい何が書かれていたのだろう?
質問を投げかけると、オリヴィエは、再び悪戯小僧のような笑みを浮かべた。
2011年7月7日、7人の日本人とともにシャンパーニュ地方の中心都市、ランスにあるクリュッグの本社を訪ねた。それが日本の七夕の日だったのは偶然ではない。我々を招いたオリヴィエの演出だ。
彼は日本通として知られている。1989年、クリュッグ家の6代目として正式に家業に加わった彼は、翌'90年から2年間日本で暮らした。当時の日本でクリュッグの名はあまり知られていなかったが、彼は日本人がクリュッグの価値のよき理解者となることを、疑わなかったという。
「ひとつひとつの仕事はシンプルでも、それを積み重ねることで誰も真似のできない素晴らしい日本の工芸品が生まれる。それは我々のシャンパーニュ造りの哲学と同じことなのです」
ヨハン・ヨーゼフ・クリュッグの手帳。書き込まれた几帳面な文字を見れば、彼がどんな人物だったか想像できる気がする。
歴史を感じさせる、瀟洒な佇まいのクリュッグ社屋。中庭には収穫に備えてメンテナンス中の発酵用小樽がずらりと並ぶ。
クリュッグ家6代目当主、オリヴィエ・クリュッグ。
社屋を回り、クリュッグの心臓とでもいうべきアンボネ村の美しい畑を巡り、葡萄の栽培から醸造に至るまでのシャンパーニュ造りの各工程を丁寧に説明しながら、彼はそう話してくれた。クリュッグのシャンパーニュの一次発酵はすべてフレンチオークの小樽を使用して行われる。さまざまな個性の原酒を無数に造り、熟成させてさらに個性を引き出し、それらを組み合わせて、毎年安定した最高級のシャンパーニュを世に送り出し続ける。すべてが熟練した職人の手作業であり、経験と直感が頼りの、現代的な基準からいえば、手間のかかる非効率的な作業の積み重ねだ。
